2017.03.09
京都の街の、音を読む。
第1回 三月書房

- Credit :
- 文 / 土門 蘭、 イラスト / 岸本 敬子
先日マガザンの岩崎君に、「壁コラムを連載しないか」と誘われた。
それでどういったものを書こうかと数日考え、「心から好きな場所について書こう」と思った。京都には特に音楽が流れていないのに、独特の音楽を奏でているような場所が複数ある、と思う。その音楽は、そこ以外では決して聴くことができない。この連載ではそういった場所について書いていこうと思う。
目次
京都の街の、音を読む。第1回 三月書房
本は「生態系のひとつ」である。
『音読』13号「Independent Publishing in Portland and Kyoto」にて、出版社・ミシマ社の三島さんにインタビューをしたとき、そんな言葉が三島さんの口から出てきた。
…取材中に、「生産者は太陽しかなくて、それ以外のものは基本的に分解者なんだ」という話を聞いたんですけど、分解者ってつまり、取り入れてまた出して循環させていくという生態系の一個じゃないですか。それで、本もまたそういう自然の一個だなあと思ったんですよね。消費して終わりじゃない、生物の活動の一部なるっていうか。
それを聞いて、「本は食べ物と一緒なんだな」と思った。本は読んだ人の血肉となる。私たちのからだは、読んだものでできている。
本を食べ物と捉えると、書店はさしずめ冷蔵庫といったところだろうか。私たちは冷蔵庫から食べ物を取り出し、必要なら調理をし、口に入れ、消化し、要るものは血肉とし、要らないものは排泄する。
忙しくなると、温めるだけで食べられる冷凍食品や、出来合いのお惣菜やコンビニ弁当に頼りがちになるように、選びとる本にもそういった傾向が出てくる。もちろん書店には、そういったこちらのニーズにこたえてくれる、漫画で読む名著、一週間で身につく英会話本、すらすら読める哲学書など、時間のない私たちにぴったりな本がたくさん積まれている。それはそれでありがたく、読まないよりはマシだと手に取り流し読む。そういった本は大抵柔らかくできているので、噛まなくても飲み込むことができるのだ。
ただ、その恩恵に甘え続けていると、ふと自分のからだがたるんでいるのに気づく。そしてやっと、「ああ、本は食べ物だった」と痛感する。反省した私は、新鮮で、噛みごたえがあって、滋養のある、そういった本を探しに出かける。そんなとき訪れる書店は、三月書房である。
京都には、在庫の豊富な大型書店だけではなく、店主の色が濃く出る個人書店が数多く存在している。寺町御池を上がったところにある三月書房は、まさに後者の書店だ。冷蔵庫で例えるならば、国産メーカーの真っ白い冷蔵庫。小さくて古い、しかしきちんと手入れされ、しっかりと仕事をまっとうする、そんな冷蔵庫を連想させる書店である。
一見古書店のように見えるが新刊書店だ。古くて狭い店内には、整然と本が並んでいる。奥のレジカウンターでは、店主とおぼしきおじさんが本を読んで座っている。お客さんは年配の方が多いようだが、たまに漫画を熱心に読んでいる子供もいる。静かで、音楽はかかっていない。扉を開け放しているので、寺町通りを走る車の音や、歩く人の話し声、近所の古道具屋にさげられている風鈴の音が聴こえてくる。
棚には雑誌、文庫、単行本、バーゲン本(潰れた出版社の本)、コミック、いろいろある。立て札もポップもなく、本がグラデーションのように静かに分類されている。新刊も、定番本もある。どこにでも売っている本も、見たことのない本もある。平積みはない。どれもが棚に、たった一冊ずつ差されている。
三月書房に来ると、不思議とどの本も緊張感を持ち、背筋を伸ばしているように見えるのは、一冊一冊が店主によってきちんと選ばれたという誇りを持った、まぎれもない「一冊」だからだと思う。
背表紙の上を視線でなぞっていくうちに、「これが今の自分に必要な本だ」というのに必ず出会う。それは、流行にも店側の意図にも拠らない、自分が直感で選び取る一冊だ。自分のからだの弱いところを補う栄養を、十分に有した一冊。どの本がそれか、ここに来るとちゃんとわかる。三月書房に来ると、本たちの醸し出す緊張感から私たちの感覚も冴え渡る。だから、間違えることはきっとない。
三月書房で流れるのは、冷蔵庫が夜中に台所で低くうなるような、単調で飾り気のない、実直な音だ。ここでは滋養をたたえた本たちが、静かに適温で保存されながら、餓えた私たちを待っている。
三月書房
住所:〒604-0916 京都市中京区寺町通二条上ル西側
TEL:075-231-1924
営業時間:
平日11:00am~07:00pm(火曜・定休)、日祝休日12:00pm~06:00pm